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くず人間の更生記録(にしていきたい)。人間初心者の個人的見解

メタ認知

「他人の気持ちを考えろ!」

一度は言われたことのある言葉じゃないだろうか。僕も子供のころけっこう言われた。僕はバカ正直で思いついたことが全部口に出てくる子供だったから、その分人を傷つけることも多かったんだと思う。そんな僕にはいまだに人の気持ちはよくわからない。

「自分のことは自分が一番よく知ってる」

この言葉も割と目にする言葉だ。そして多くは「いやお前はわかっていない」と続く(これで僕が携帯小説とかも結構読んでいることがバレると思う)。そう、自分のこともなかなか把握することは難しい。結局、気持ちとか感情を理性的に把握することは難しいことなんだと思う。他人の気持ちの把握が難しいのは情報の欠如、一方で自分の気持ちの理解が難しいのは客観視できない+認めたくないからだと僕は考える。だから親友などバックグラウンドの情報を知り、かつ個人の考え方・思考回路を知っている人の感情はかなりわかりやすい。この鈍感バカの僕でさえ親友の考えはよくわかるのだから、結構的を射ているのではないか。

ところで、自分の感情を理性的に把握できないのは問題だ。感情に従うべきときはもちろんあるけれど、できれば後悔のないように生きていたいと思うからだ。僕が簡単には自分の感情を理解できない理由として挙げた2点を考えよう。あくまでこの2点は僕の20年ちょっとの人生から感じたことだから、あと10年生きれば変わるだろうし、バカなことを言っているのかもしれないけど、今の僕の意見ということで記す。

まず客観視できないということ。これは単純に自分のことをそんなに追及しないということ。問題が起これば自分の問題点より他人の問題点の方が目に付く。それははるか昔から変わっていない。孔子は言った。「君子は諸を己に求め、小人は諸を人に求む」と。偉大な人は自制しながら自分に問題を問うているのであり、やはり自然に客観視はできない。問題が起こればある程度大人になると自分に改善点を探すけれど、問題が起こる前にはそんな作業はしたくない。また仕事をしていて他人の改善点は簡単に見えるけれど、自分の欠点は目に見えた失敗が無ければそう簡単には見つからない。

次に認めたくないというバイアスがかかってしまうこと。自分のことがみんな大好きだから、自分が調子に乗っていることや自分に酔っていることを認めづらい。虚栄心や自己陶酔による思考を認めたくないという思考だ。例えば自分の考えは正しいと思うから、発言する。それを頭ごなしに否定されればどうしても反論の材料を探してしまうのではないか。他人の批判に対して「でも…」とか「だって…」という返事から始まることは多いと思う。それは自分の正当性を証明したいから。つまり自分の非を認めたくないから。以上の2つのファクターは僕個人の経験からすると大きい。

要はメタ認知というのが本当に難しいということだ。なぜならその視点を普段から使わないから。ヒルベルト計画やゲーデル不完全性定理はある意味メタ数学だ。(「メタ数学」という言葉は数学ガールより引用。僕は結城浩さんの大ファンだ。)その考えは到底凡人には思いつかない。たとえそこに至る考えが理性的であったとしても。それはこの考え方が難しい捉え方だから。

ただ1ついえること。それはメタ認知が難しい概念だと知ること。それだけでメタ認知には一歩近づける。さながら無知の知のように。そして一息ついたときに自分のことを考えてみること。カフェで一息の時でも、湯船に浸かっているときでもいい。働かさなければ筋肉だろうと脳だろうと発達しないのだから。なりたい自分になることは、現在の自分を見なくてはいけない。しかし脳に鏡はない。理想の自分への到達にはメタな視点が必要だと思う。

 

 

 

 

応急処置

応急処置は非常に重要だ。

救急救命において医療従事者が来るまでにどう対処できるかが、救命の可能性を大きく動かすことは周知の事実だ。救命だけではなく、負傷した場合でももちろん重要な知識である。医療における応急処置だけではない。スポーツチームの場面でも予期せぬ問題が起こった際には応急処置が施される。応急処置とはコストパフォーマンスに優れ、本質の改善はあまり期待できないものの、その問題をある程度隠せる処置であることが望ましい。

さて今回は応急処置の重要性について話すのではない。問題が発生した時の私たちの動き方についての考察だ。応急処置というものの多くは「前もって定められているべき」だということはわかることだと思う。すぐに対処しなければならない問題を目の前にしたとき、有効で・根本につながる対応というのはなかなか思いつけない。だからある程度想定しながら、問題に対する準備をしないといけない。

だが予想していないことは起こってしまうものだ。特に新しいことをやるとき、あるいは学生生活など共有しづらいとき。そういう場合は情報が足りなくて予想できなかったり、そもそもそこまで深く考えていないこともある。そんなときの対応はどうだろうか。応急処置と言えるのか、それとも単なる付け焼刃になるのか。

難しい課題だが、まずは問題を明らかにすること。そしてwhyとhow,whatを考えて片づけていくこと。それくらいしか考えられない。時間がないなりに問題点と一度のwhy。そのあとはもう対処のフェーズに移っていかないと厳しいのではと思う。どんなに時間がなくても「どうして」という概念を忘れてはいけない。そこがないと単なる付け焼刃で問題を放置、あるいは悪化させるだけだ。だけどあまりに追及すると時間も労力も消費してしまう。その塩梅はかなり難しい。

しかし忘れてはいけないのはそこで活路を見出す人間が優秀な人材なのではなく、そのような窮地に陥ることを想定して準備できる人こそ賢い人間だということ。準備を頑張れる人間は本当に頼もしい優れた人だ。僕には残念ながらできないが、これはそういう友人を想って書いた記事。

 

数学ガール

僕の大好きな本。それは結城浩さんの「数学ガール」シリーズだ。

『数学ガール』シリーズ

この本は僕が高校生の時に読み始めた。内容は数学を専攻している人でなければかなり本格的なところまで踏み込む。もちろん専攻の人からは論証や定義に甘い点も多いだろうと思うが、前提となる知識がない人にとっては十分な内容だと思う。当時の僕には非常に難しかったし、今読み返してもわかりきれないところはある。

 

さて何が面白いのか。まずミルカさんがかわいい。とても賢明で理性的な登場人物だが、突然デレる。たまらない。単なる数学書ではなく一応ストーリーがあるからそこまで怖がらなくても読めるのは初めてのとき本当に嬉しかった。

次にどんな概念が来ても、きちんと[具体例⇄一般]の基本から離れていかないことが素晴らしい。高校で教えてくれることはいつだって手段だ。例えば解の公式。例えば判別式。ベクトル。エネルギー保存則だったり、運動量の保存。でもどういうときにそれを使うのか、どうしてそれが思いつくのかなんて教えてくれはしない。灰色の問題の中から、赤・黄・青を抽出する作業は教えられない。だけどこの本の中では、思いつくために手を動かす様がしっかり描写されている。ここが最も感銘を受けたところだ。考えを思いつくために、キャラクターたちが生き生きと動き始める。その動きや考え方を真似て高校時代苦しんでいた勉強に落とし込むと、世界が開けていった。解法を思いつく基本原則を考えるために問題を解き、自分なりの原則が正しいのか検証するために問題を解いた。これは本当に楽しい時間だった。

最後にちょこちょこ格言めいた言葉が出てくること。これはぜひ読んでほしい。各シリーズに必ず一つは心に残る言葉があるはずだ。

以上3点が僕の面白いと思う点だ。僕がバカだからかもしれないが、サクサク読む本ではない。しかし頭の中でわかる、とわからない、をしっかり線引きしてどんどん思考の世界に潜り込んでいける本だと思う。その思考を助けてくれるキャラクターはわざとらしくなく、頭の中で自然に動き出す。誰でもわかる算数レベルから思考の世界に旅立ち、気付けば数学界の偉人の背中をちらりと見ることができる。そういう面白い本だと僕は思います。

結城浩さんには心から伝えたい。ミルカさんを生み出してくれてありがとうございます。僕はこの本で高校時代の考え方がかなり変わった。勉強に対しておもしろいと初めて思った。本当に感謝しています。

 

数学ガール (数学ガールシリーズ 1)

数学ガール (数学ガールシリーズ 1)

 

 

 

数学ガール/フェルマーの最終定理 (数学ガールシリーズ 2)

数学ガール/フェルマーの最終定理 (数学ガールシリーズ 2)

 

 他にもありますが、2つほど貼っておきます…

面白いことをやっていただけだ。お金のためにやったわけじゃない。

成功した人はこう言う。面白いことを追求しただけだ。金は勝手についてきただけだ。以前NHKのプロフェッショナルで取り上げられた京都の割烹ではカウンター14席に予約の客しか相手にしないという。それどころか客は回転せず着席、料理を提供、お見送りでその日の営業はお終いだ。そこに妥協はなく、その14人に全身全霊で料理を提供していく。すごくかっこいい姿勢だ。さすがプロフェッショナルである。

一方で僕がバイトをかつてしていた居酒屋にはそんなこだわりはなかった。別に経営が危なかったわけではないけど、大繁盛ではなかったように思う。少なくともプロフェッショナルではなかった。では居酒屋にこだわりを導入すればどうなるんだろう。自分の信念を追求した大衆居酒屋。確かに一度見てみたいけど売れないんじゃないかなと思う。もちろん何にこだわるかだとは思うけど。

言いたいことは「妥協しないが許されるのは、実は一部しかないんじゃないか」ということだ。面白いことを追求できる人は幸せだけど、全員が追求できるとは思えない。例えば何事も思考せずにただひたすら作業しなくちゃいけない人も必要だ。大学時代のバイトのほとんどは思考をやめる時間だった。こういう人材も必要。

プロフェッショナルは幸せだ、みたいな雰囲気でここまで書いてきたが、案外そうでもない。妥協をしないことは戦うことだ。傷つくことだってある。責任を問われるし、何より悩まなくちゃいけない。苦しんで失敗して、でも諦めきれないから妥協せずに追い求めて辿り着くところ。それが他人に評価されて初めて成功したことになる。成功を想像できずに心が折れる人なんて世の中たくさんいるし、最初からこんな苦しい思いしなけりゃ良かったと叫びたい気持ちはこの世に溢れているだろう。プロの世界は残酷である。

ただやはり自分の面白いことが生きがいであり、それを世界が評価することは間違いなく最高の幸せだ。人には絶対に勝負するタイミングがある。その時に成功に近づけるか。妥協を許さず、信念を追求できるか。僕は今矢面に立っていない。最前列で戦っていない今だからこそ、勝負に加わる準備をしなくちゃいけない。何が僕の信念、そして面白いことなのか。その思考、そのために手足を動かすこと。これらが一番の準備になると僕は信じている。

妥協をしなくていいための条件。それを考えることは面白いへの第一歩となる。

助けて

つらいときは誰だってある。そんなとき、助けを求められるだろうか。甘えられるだろうか。前に立つ人ほど甘えたり、頼るのが下手だと思う。あまりそういう経験がないし、ちょっと恥ずかしいから。でも大人になればなるほど、自分から助けを求めないと誰も助けてくれない。助けてくれないというか、助けられない。苦しんでいるのがわからないから。でもなかなか言えないものだ。嫌だと思っていても、我慢できる無駄な強さがあるから。だけど子供の時はあんなに簡単に言えたことが、どんどん難しくなっていくのは皮肉な話だ。

世の中はけっこうなハードワークを課してくる。時間的なきつさ。精神的なきつさ。そういうことに耐えられる人間を「優秀」な人間と扱うのが最近の日本らしい。確かにきついことを妥協せずに貫けば競争相手が少ない状況が生まれるから、結果や評価は得やすくなる。つまり優秀だ。ただ妥協しないことを強要するのはいわゆる拷問だ。だけどやってみなくてはわからない面白さも存在するから、この問題はどうとも言えない。乗り越えて見える面白さは確かに存在する。だから自分がハードワークをしてでも掴みたいものがあるとき、やっぱりきついことは折り合いをつけて我慢して進まなくてはいけない。

そんなとき「助けて」と言ってみよう。助けてだと本当に危機的状況な気もするから、「ちょっと聞いてよ」で十分だ。一言で一気に楽になる。ああこんなに自分は重く考えていたんだなと呆れてしまう。この感覚は本当に面白い。

逆にすごく真面目な人がいたら「もっと頼ってほしい」と言ってみよう。真面目で、模範とされる人間はどこで息抜きしていいのかわかっていないこともある。その人にかけた一声で、実際に愚痴を言うかどうかは別としてかなり救われるはずだ。

友人に完璧人間がいる。今まで出会った中で一番有能な人で、彼女がミスをしても誰も非難しないのではないかと思うくらい完璧だ。そんな人でもつらかったり、甘えたいときはあるみたいだ。同じレベルで切磋琢磨することはできていないけど、力になれるなら僕のことも頼ってほしいと申し出た。すると意外にも普通のことをぽろぽろとこぼし始めた。どれだけ賢くて、有能であったとしても中身は普通の人間だったんだなと驚いた。それを通して思ったことが上の内容だ。彼女のことを本当に尊敬しているから僕は支えていきたい。

why?

「なんで?」

その質問は本当に鬱陶しい。想像してみよう。「先生これどうしてこうなるの?」となんでも質問してくる生徒がいたとしたら、面倒だ。なんででも!!と言い返したくなる。でもそこにはすごく面白いことがきっと詰まっている。そういう思考回路は勉強や学校生活を通して一番学ぶべきことだと思うから。僕は「NHK プロフェッショナル-仕事の流儀-」が大好きな番組でよく観る。そこでいつも思うのは「自分の信念を妥協しない」こと。そしてその信念への至り方はやはり"why?"だと思うのだ。

一方で「なぜ」は特異な能力ではない。一時騒がれていた(そして今や下火になりつつある)ロジカルシンキングとか本当にバカバカしい。そんな大層な名目を付けて取り扱うものではなくて、意見を持とうとすれば必ず疑問に思うでしょというだけの話。どれだけ突き詰められるか、どれだけ妥協しないかは確かに難しいことだとは思うけれど。言いたいことはwhyは難しい概念ではなく、自然に湧いてくる考えだと思う。

しかし「ロジカルシンキング」とご立派な名前を付けてあげないと世間で扱われない程度には「なぜ」は普及している考えではない。そこに僕はおかしいと言いたいのだ。僕はたまたま結城浩さんの「数学ガール」シリーズに出会い、考える楽しさを知ることができた。高校時代にどうしても解き方がわからなくて、「なんでこんな解法思いつくんだよ」といらいらして、そこから「なぜ」の追及が始まった。でももっと素直な気持ちでなぜを考える場を提供すれば、多様な意見が生まれるし失敗を恐れない風潮も少しづつ出てくると思うのだ。答えがないことを考えること。そこに至るのが少数しかいないのはおかしい。

さてその考える場はやはり教育だろう。教育の場で"why"を核にした授業・プログラムはかなり少ないと思う。それがスタンダードになるべきだと僕は考えるけれど、なかなかそういう動きは見当たらない。だって個人の匙加減でどうとも取れるし、何をもってwhyが生まれるのかが明らかではないから。しかも一対多で考えるのは本当に難しい。だけど僕はこの考えをそんな簡単には諦めたくない。何が積極的に思考に至らせるのか。これを考えていきたいなと思う。

寒いですね

最近冷えてきた。さすがに11月にもなると十分冬が見えている。人肌が恋しい季節ですね。こんなときは軽く鍋でも食べよう。家に帰って鍋に昆布をぶち込む。しばらくToDoをやって早めに風呂でも入る。出汁が出たら豆腐と白菜と鶏肉でも入れて炊き始めよう。色のついた野菜がないから、ほうれん草とか入れるのも悪くない。味はポン酢につけるだけで十分おいしい。僕は馬路村のゆずぽんが好きだ。あれはおいしい。最後に雑炊を食べれば幸せな夜になる。ゆっくり上がりの緑茶を飲んでもう一度机に向かえれば完璧だね。

え、一人鍋なんてさみしいだって?鍋のおいしさの前にはさみしさなんて消し飛ぶからいいじゃないか。ぼっち系料理男子には怖いものなんて何もない。