Design My Life

くず人間の更生記録(にしていきたい)。人間初心者の個人的見解

就活単語の気持ち悪さ

悪口です笑

就活生の単語の気持ち悪さをどうにかしてくれ。本当に恥ずかしくなる単語をポコポコ生み出していちいち違和感を感じてしまうのは僕だけだろうか。

企業研究、業界研究、自己分析、ロジカルシンキング…。そんなに大層な名前はいるのかな。そもそも研究ではない。勉強だと思う。わからないものを調べるわけでないから勉強でしょ、と理系学生として普通に思う。自分の気になる会社・業界だからどんなことやってるのかなーと思うから調べる。自分はどういう人間でこれができますと言いたいから自分のことを考える。どうしてと思うからなぜならと受け答えが発生する。何もおかしくない、当たり前のように生まれる行為だ。全部素直にやればいいのにな、と感じる。素直に、素朴に。どうしてあんなに仰々しい単語にしたのか、そしてどうして違和感を感じないんだろう。

面接にしたって僕はこれができます、こういうことをしたいです、以上に伝えなきゃいけないことはないのだから、それ以降は友達のお父さんくらいで良くないのかな。もちろん自分の人生を決める部分ではあるから、緊張することはあると思う。だけどあんなに自分を大きく見せる必要はあるのだろうか。就活セミナーとかで言われる「優秀な人間」に寄せに行かなくていいんじゃない、と友人を見ていつも思う。素直なお前はかわいくて、健気で、気が利いていて、頑張り屋で。人の話をよく聞いて、そこからすごく思いつくのになあって。

就活就活と変に鎧をゴテゴテに纏わなくてもいいと思う。何かがおかしいと傍から見ているとすごく思う。僕は見栄っ張りで、承認欲求が強かったけど、鎧を外すことを覚えたら随分楽になった。きっと楽になる人は多いと思う。

素直にやりたい方向へ進んでいく。やりたいことでないとオリジナリティがないから。だけど、他人のために出来ることでないとやる意味がない。僕自身には存在価値はあまりないから。死にたくはないけど、僕自身に価値はないから何かを生み出したい。僕の欲求を満たすことはやる気以外の意味はない。ここを両立できるところを進むだけ。簡単なことだ。もっと気楽に、素直に、簡単に。僕はこうしていきたい。

Starbucks Coffee

たまには軽い話題を。先日友人が紹介してくれたお店の話。

僕はスタバが好きではなかった。なぜなら無駄に高いし、東京のスタバは人が多いし、リラックスできるほど広くもないし、静かでもない。そう思っていた。だけどここは一味違った。Neighborhood Storeだ。

www.starbucks.co.jp

他にもNeighborhod Storeは数店舗あるが、僕が行ったのはこちらの店舗。ここは非常にゆったりとしている。空いたスペースが多いというのか。何より店員が本当に楽しそうに働いていて見ていて気持ちがいい。記憶に残っているのは、カウンターでバナナにザラメをかけてバーナーで炙っていた様子。店員同士でバナナの厚さや皿などいろいろ試していた。その様子はチェーン店とは思えなかったし、すごく楽しそうだった。ここは味や空間に加え、楽しそうに働く様子が見られる。そんなコンセプト、教育ができるスタバはやはり強い。恐ろしい会社である。古本屋でこの本が安く売っていたから読んでみることにした。

 

 

そういや僕の友人もバイトでスタバで働いているが、すごくすごく楽しそうだと思い出した。Twitterでそれこそくどいほどに呟いている。”くどいほどに”だ。それだけ好きなんだなあと思う。かっこいいと自分で酔える程度に好きなんだなと。その秘密を知りたい。

友人がくどいことはさておき、代沢のNeighborhood Storeは本当に良かった。最高のお店、雰囲気、店員さんの対応だったので紹介したくなりました。良い時間を本当にありがとう!

思考

考えること。

いまや暗記することは果たして必要なのか。僕はあんまり要らないと思う。いま知識はGoogleに聞けばなんでも答えてくれる。もちろん勉強というのは本当に意味があると思う。おばかな中学生が「先生どうして勉強しなくちゃいけないんですか!?」と言うのは本当に意味のない質問だと思う。

勉強には

・自分のものごとの判断基準を作る基礎となる

・歴史の勉強(歴史はそれこそ教養だし、偉人の考え方、人類の失敗は自分の考えに吸収できる)

・自分の理解できるかできないかの瀬戸際を知る、そしてそこで遊ぶ

以上のメリットがあるのではないかくらいが個人的な見解。異論は認めまくる。

もちろん外国語はまず暗記だとは思うけどね。単語やルールがわからないと何も始まらないし。

 

さて暗記である。

物事を覚えるのはやり方だとか、その人の能力だとかが関係しているけど、要は根気だ。継続こそ暗記の基本だ。どの程度努力できる人間かを測るツールとしては暗記は最高だと思う。僕は努力(特に面白くないなと感じる方面)の継続が苦手だから、暗記が人を測るツールだと非常に苦しい。

でも勉強の本質は暗記ではなくて「思考」だと思う。わからないと思うところで実際に手を動かしてわかるに進むこと。そこでグレーなのに無理に進めばどこかで必ず転ぶ。「わからない」で実際にいくつも例を作ったり、少し簡易化するような試行錯誤は非常に楽しいし、何より「なるほど!」は気持ちいい。これらの経験は僕の中では机の上の勉強だけでなく、色んな活動に活きている。

こういうことはやはり万人受けしないのだろうか。そもそも落ちこぼれた人間は努力や疑問を抱くことをしない。それは僕が堕落した瞬間思った。僕も今落ちこぼれていて、「わからない」に立ち向かうことは本当に億劫に感じる。中学生・高校生ならなおさらだ。入学後にできないと思った人間はそこから急に成り上がるのは難しいし、そのレベル帯で満足してしまうから。赤点を取った人間は赤点回避で満足してしまう現象を見ればわかる。こうなってしまうとなかなか這い出すことは難しい。運動と違って、思考に至るのに最も近い活動はやはり勉強だから、それを怠れば人生における思考の楽しさをわかれない。もちろん運動で思考できるほど、結果が出せるなら何の問題もない。本当に悩むレベルに達するためには、ある程度のレベルが必要だ。なぜなら言われたことを根性や気合で押し切れるレベルには思考は存在しないから。きついから考える。そこには「思考」が存在する。スポーツ選手の中には勉強ができない人もいるが、彼らの多くは人間的に魅力がある。だから尊敬されるし、真似したいと思う部分がある。それは「思考」に至れているから。ただ多くの人間が思考に至る可能性が高いのは、やはり勉強という場が最も可能性が高いと僕は考えている。

「思考」。そこに至るにはわからない、とわかるを区別しなきゃいけない。赤点を例に出したが、本当に苦しんでそのレベルにいるなら何の問題もないと思う。ただ思考を放棄してはいけないとのこと。そして思考を強要してもいけない。そこに至る教育を作るのは本当に難しいとは思うけど、そこを妥協してはいけないんだろう。国規模では難しいのかもしれないけど、学校単位や塾を通してそんな考えを提供しているところはないのかな。教育制度だとかはどうでもよくて、どんな能力であれ「思考」を面白いと思わせること。それを刺激することが一番の成長に伸びるんじゃないだろうか。

僕の高校の恩師はわからないことは面白いことだと教えてくれた。思考を促すこと。それが人の上に立つ人間の責務だ。

 

Gifted

 Gifted

この単語を聞いたことがあるだろうか。Wikipediaによると

ギフテッド: Gifted, Intellectual giftedness)は、先天的に、平均よりも、顕著に高度な知的能力を持っている人のこと。または、先天的に、平均よりも、顕著に高度な知的能力を指す。(中略)ギフテッドは、外部に対する世間的な成功を収めることではなく、内在的な学習の素質、生まれつきの学習能力を持つことを指す。

ギフテッド - Wikipedia

と記されている。このwiki内に記されているように日本は能力平等主義だからやや反発を招く表現だと思うし、実際今まで聞いたこともなかったのはそういう背景があるからなんだろうなと思う。

さて話は少し変わる。つい最近、僕は変な奴だと気づいた。そのきっかけはさておき、非常に驚いた。今まで自分のことを変わっているとは全く思ったことがなかった。自分のことを優秀だと思うことはあっても、それは単に考え方がたまたまマッチしただけだとかその程度にしか考えていなかった。しかしどうやらおかしいらしい。世界観や考え方。そういうものがどうやらずれているようだ。

なるほど、道理で友人から違う目で見られるわけだ。僕は自分で言うのもなんだが集団の中では大概できる人間だ。だからみんなは「できる人フィルター」を通して僕のことを見るから理解されなかったり、あいつは違うみたいな風になるのだと思っていた。しかし実際に変だからそう思われていただけなようだ。幸い勉強や部活ができたからうまく存在出来たのであって、もし普通の成績で考え方だけ変だったらと考えれば恐ろしい。

さてここまではさんざん自慢してきただけだが、僕は本当に困っている。それはGiftedということじゃなく、Over-Excitabilitiesについてだ。優れていようが何だろうが正直どうでもいい。僕の悩みは「非常に憂鬱な時、刺激を一切断ちたがる」ことだ。一切断ってしまうから、基本的に引きこもる。高校でも大学でもそうだ。自分につながっている管をブチブチっと引きはがすのはすごく気持ちがいい(はっきり記憶していないが村上春樹さんか石田衣良さんの本でこういう表現があって、感動したことを覚えている)。そしてそこでぐるぐる考えて納得するときもあるし、そのままなこともある。いずれにせよ、刺激から離れたいと思うことだ。何もしたくない。こういう自分のことを単に甘い人間だからと思って罪悪感を抱えていたけど、どうやら異常なだけらしい。もしかしたらその考えに逃げて、自分が未熟な人間であることを認識したくないだけかもしれないけれど。クズ人間と自称するのも、自称することで本当はクズじゃないと信じている心に蓋をしているだけかもしれないから。

いずれにせよ、集団のリーダーを任せられることが多い僕が、刺激を断って引きこもると非常にまずい。動きが停滞するし、何より僕の罪悪感・自責の念が本当に消えない。だからそういう自分が嫌になって死にたいと何度も考えたし、以前そういう記事も書いた。でも世の中もっと面白いことがあるし、それを自分はできると思っているから死にたくない。単にそれだけだ。こんな思いしない方が絶対にいい。だけど僕は考えることをやめられないし、楽しいことにはどんどんのめり込んで、苦しさを伴うレベルに達していつも辛くなってしまう。結果を出し、精神的にも中心人物であることが多いから(マネージャー談なので自画自賛ではないです)周りからは理解し難いし、誰かの行動が引き金になることは少ないからそもそも驚く。またそのポイントは抽象的でなかなか理解されがたい。

みんなそうだと思っていたし、途中で普通であるべき行為をやらなくなる自分は単に甘く未熟な人間だと考えていた。しかし3回目にもなるとどうやらおかしいということに気付く。何かしら対策を講じないとまずいと考えて心理学を漁っていたらここに至った。まだまだ勉強不足なので先は見えないが、光が見えそうなので頑張るつもりだ。自分の長所を伸ばして、欠点も補えるときたらやらない訳もないからね。誰もこの憂鬱さについて教えてくれないなら、病院に行くか自分で調べるしかない。そして知ることは案外楽しいし、言葉にできなかったことを教えてくれる様な感覚で非常に面白い。同様に悩んでいる方はぜひ。

 

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Venture? 企業

venture 動詞:思い切って~する/危険に身をさらして~する

多くの辞書ではこのように書かれている。そこからベンチャー企業という言葉が生まれたのは自明なことだ。

さて実際にventureしている企業はどれくらいあるだろうか。友人のインターンの話を聞いているとそう疑問に感じる。大企業ではない、普通の企業というだけで「ベンチャー企業」と自称する。別にそれ以上の悪い感情は抱いていない。ただ僕が話を聞いた企業が僕の期待するものと違って違和感を感じただけ。競合ばかり見てそれでベンチャーを名乗るのはやめなよと思うだけだ。内容として次の通り。自社のサービスの改善案をインターンとして考えさせる。その前準備として他社の同様のサービスと比べることがあったらしい。どうやらその会社は理念ありきではないようだ。

一方でこちらのLifehackerの記事を見よう。超大企業Appleだ。

www.lifehacker.jp

Appleの製品は理念を基に作られる。もちろん後付けかもしれない。消費者の僕達にはわからない。だけど、理念を聞けばなるほどと思えるものしか出てこないからおそらくそうなのだろう。もしかしたらイヤホンジャックの廃止だって自分たちが先行すればある程度利益を独占できるからかもしれない。しかしそんな小さな考えではなく、自分たちの理念を最優先にしたらその選択が正しかったというだけではないだろうか。長い間iPhoneが防水ではなかったのはスピーカーの音質を守りたかったのだろうと思うし、今イヤホンジャックを廃止したのは、記事の要素に加えて防水技術が整ったこと・そして廃止しても周りの企業にLightningケーブル対応のイヤホンを作らせる実力があるからだと僕は思う。他社を参考にすることはあるだろうけど、いつだって理念は思考の中心に存在している会社だと思う。

このように企業が理念を達成するために「思い切って進める」ことこそventureだと思う。結果として失敗したり批判されることが多いから大企業はためらいがちになる。従って思い切って進みやすいのは小さい企業になりがちだというだけで、大企業でないというだけで”自称”ベンチャーと名乗ることは非常につまらない。

 理念を掲げること。その例としてstarbucksがある。彼らはミッションとして理念を掲げている。そしてその概念はアルバイトだって知っているし、それを達成しようと彼らは働く。それもすごく面白そうに。だからこんなに大衆に受けるのではないだろうか。もちろんどんな会社だって企業理念というものは存在する。しかしそれが飾りになっていないだろうか。それをもとに動けるだろうか。考えを生み出せるだろうか。理念を達成するために危険を顧みず飛び込める企業がベンチャー企業なのであって、ベンチャーになればなるほど競合に興味はないんじゃないかなと感じた。横を見たって仕方ない。理念が面白いと思うから共有したくて、客は勝手についてくるもの。信念の追求には躊躇わない。どう追求するのか、どう表現したらいいかで悩みに悩む。そういうのがプロだし、僕が見たい”venture企業”だと考える。

このブログを知人に話したことは一度もないから、おそらく読むことはないと思うけれどきっかけとなる話をしてくれた友人に向けて一応書いておこう。僕は君や君の行動・経験を否定するつもりはさらさらなくて、一般的にベンチャー企業と名乗る、実際はventureしていない会社を皮肉りたいだけだ。君のことは一切否定するつもりはない。もし読んだとしてもむっとしないでくれ!!笑

 

 

 

 

部活動

僕は中学、高校、大学とすべて運動部に所属してきた。大学ではサークルではなく体育会と呼ばれる部活で活動している。さて、部活動の意味とは何だろうか。それを今回は考えたいと思う。

僕は部活動は単に経験・思考をできる場としか考えていない。以前の記事でも書いたが、本気でやるからつらくなる。つらくなるから悩む。言われたことをすんなりと実行できる範囲には思考は存在しない。思考に至るには本気で取り組む必要があると僕は考えている。だから僕にはサークルに入ることはあんまり考えられなかった。楽しいと思うし、つらいことは存在しない。つらいことはなくて平穏な日々があるのだとは思うけど、そこには麻薬のような甘美な幸せはないと思う(もちろん僕は麻薬をやったことはないのだけれど!!)。目標を信じて苦しみを乗り越えること。そして様々な人の助けを借りて、自分の目標を達成することの気持ちよさ。期待に応える幸せ。期待に応えれば人々は笑顔になる。そして自分も目標を達成して幸せな気持ちになる。この両方が達成されたときほどの幸せは存在しないと思う。これほど中毒性のある幸せはなかなか存在しない。僕はこの感覚を4度ほど味わってしまっているので、高い目標を掲げることをどうしてもやめられない。

しかし、戦うということはとんでもない苦痛を伴う。部活に関わらず、本気で取り組む苦しさを味わっているならわかるはずだ。本気で音楽をやったり、芸術をやること。それは悩みをもたらすし、苦しい思いを何度もする。ただ部活は簡単に入れるし、勉強以外で最も近くに転がっている本気の活動だから、簡単に苦しむことができる。大いに苦しむ代わりに本当に甘い甘い幸せをつかむ可能性が存在するというだけ。

さて問題は苦しむことだ。苦しむことの代わりに甘い幸せが待っているかもしれない、というだけで人生の多くをつらいと考えていていいのだろうか。不毛ではないのだろうか。僕はまだまだ大学生だから社会人のつらさはわからない。だけどその作業そのものをある程度楽しめないと、結果や報酬だけを引き換えに努力することは厳しいことだと思う。というのも僕の所属している部活動の練習は本当に肉体的・精神的苦痛を伴うからだ。結果を僕は出した。それはきちんとリザルトとして残っているものだから、自画自賛ではない。だけどそれはその結果を出すことが本当に夢だったから苦痛を耐えられただけで、それを果たしてしまった後は苦痛にどうしても目がいってしまい、モチベーションが起きない状態に落ちてしまった。これはその作業・努力の過程自体を楽しめなかった結果だと考えている。苦しみは人を育む材料になるけれど、人を蝕むモトにもなる。

さて、努力をつらいと悩む人は考えてほしい。僕も今ちょうど努力をつらい、きついことから逃げ出したいと考えている人間だから、一緒に考えよう。その作業は自分に成長をもたらすだろうか。その作業は自分の人生を灰色にする、虚しくするものではなく豊かにするものだろうか。その作業自体を楽しいと思えるだろうか。このあたりが僕はチェックポイントだと考えているけれど、他にも参考にする点はあるかもしれない。幸い僕には転職した先輩がいるし、部活を途中でやめた先輩もいる、そういった人を中心にどうして辞めたのかということは聞いてみようと思う。

ただ本当に間違っていると感じるのは、無理して継続することが美徳とする文化だ。確かに、本気にならないとわからない幸せは存在すると思う。だけど、そのことによって人生が灰色に見えてつまらないと感じることは、その人にとってつらい人生になるだけだし、なにより耐えるだけになり思考をもたらさない。それは成長につながらないから無駄な苦しみとなると思う。思考が存在する程度に工夫しがいがあり、そしてその過程を楽しめること。それこそが生きる活動であり、そして学生の部活動の本質ではないだろうか。楽しまなければ思考は存在しない。思考が存在するかどうかが、その活動を継続するかどうかの最も大きなファクターだと僕は考えている。

役職に縛られて視界が狭くなっている人。あるいは先輩からのプレッシャーにつぶされかけてつらい思いをしている人。そもそも仕事や練習が辛くて辞めたいと考えている人は一度見直してほしい。そこに思考が存在するのか。工夫できる幅が存在するのかどうか。思考を放棄して惰性で続けることほど無意味な時間はない。一緒に苦しいことをもう一度見直してみませんか。

いい時代だ

先日いきなりアクセス数が急に伸びたと思ったら数学ガールの記事を結城先生がTwitterで紹介してくれたようですね。誰かに向けて書いたわけでなく素直な考えを垂れ流しているだけですがこうして僕の感想が伝わったことに驚いていますし、非常に嬉しく思っています。

 

しかしいい時代だなと思う。何の接点もない一学生の感想がこうして著者の方に伝わること。感謝とか面白かったということを伝えられることはすごく楽しい。今まで情報収集、通販のツールとしてしかネットを使ったことはなかったけど、こうして発信すれば世の中に考えを共有できる。それがすごく面白ければ評価されたり、考えを拡散してくれる。一方で隠し事もしにくくなっている。昔は発言できるのはごくわずかな人間しかいなかった。だから糾弾や批判の声は小さかったし、それをもみ消すことなど簡単だった。政治の世界では知らないとか、記憶にないとか言ってごまかすことなど易しいことだったと思う。しかし、今やおかしいことを追求したり疑問視することは誰だってできる。どんなメディアだってその情報はフィルタがかかったものだけど、多くの情報を集めて共通するものはある程度正しくなるし、そこから自分で考えて思ったことを発言できる。ヴェン図を想像してほしい。様々な情報を集めて、「且つ」の部分は知りたいことが多くあると思う。随分情報量は減ってしまうけど、そこは多くの人が大事だと思って切り抜いた情報だから核に近いと思われる情報だ。そこから歩き出せば自分の意見が見えてくる。本当に面白いことだ。だけど、そういう時代だからこそ自分たちで考えないと前線には立てない。そういうことを強く感じた。

最近疑問に思うことをいくつか挙げておく。そのうち記事を書くかもしれないし、流してしまうかもしれないけど。

東京オリンピックの競技場建設費の高騰について

・次期米大統領トランプ氏に関する報道

・リーダー教育のなさ

 

まだ情報が足りないから言及するのは間違いを含みそうであまり言いたくはないが、どれもなかなかにおかしいところはあると思う。1番目の建設費もどう見たっておかしい。ボート競技の会場、自転車競技トラックの会場。金もおかしいし、会場が遠く離れることもおかしい。政治を権力とコネでごたごたの仲良しごっこでやるのはどうかやめていただきたい。2番目の報道だって傾きすぎていて嫌いだったし、どうしてトランプ氏が当選したのかを考察する報道を僕は見たいのにそういうものはなかなか見られない。3番目。集団の代表になることは自分を考えるいい機会だ。だけど、なかなか任される機会は少ない。というか経験に格差しか生まれない。リーダー気質の人ばかりが任される。それは直した方がいいんじゃないかなーといつも思う。

詳しいことは調べないとわからない。自分の目で確かめないとわからないことも多い。だけどこういうことを調べて考えることがすごく今は楽しいから、ぼちぼちやっていきたいなと考えている。ネットが平等に与えられて残酷だけど面白い時代だ。