Design My Life

くず人間の更生記録(にしていきたい)。人間初心者の個人的見解

支えたい

先日のマネージャーの記事は一日経って考えてみれば妬みでしかないなと思いましたが、それでもやっぱりもやもやがぬぐえない。なぜか。それは僕は人を支える仕事をしたことがないから。自分が中心か横一列に並ぶ状況でしか経験したことがないから。陰ながら支える、みたいなことを本当にしたことがない。だから理解できない。それだけのことだった。

 

私はプレイできないから、と彼女は言う。彼女の頑張りは一番知っているから、それを認めたい。しかし他のマネージャーをする友人が「調整力」や「人を支える喜び」、「主体的に動く」などを就活で話しているそうで、それを妬んでしまっただけなのだ。選手にとって楽しい程度の練習なら何の意味もない。できるかできないかの境界をどれだけ見れるか。毎日それができるわけではないけど、それを攻めないと成長はない。そこのせめぎ合いは本当に苦しくて、僕はいつしか試合以外は楽しめなくなっていた。いろんなことも学べたし、競技自体が面白いことはわかっているけれど、本当に自分を苦しめるのがつらくて僕はいま立ち止まっている。

一方でマネージャーはそんなことをしない。彼女は僕が苦しんでいるのをわかって、言ってくれただけなのだと思う。同じ線で、同じ目標に向かって頑張っている。そこに優劣、大小はない。ここまでは理屈も、感情的にも納得できる。でもやっぱりずるくないかなーと。思ってしまう。

ひとを支える。大事だし、必要とされるものだ。だけど、どこかで思う。ちょっとずるくないかな。こう思うのは僕はその経験がないだけなのだろうか。このもやもやどうにかならないだろうか。別に否定したいわけじゃない。批判したいわけでもない。ただいいなあ、お得だよなと思ってしまうだけで、そんなことを考えてしまう自分が醜くて仕方がない。

マネージャー

マネージャー。managementする人ではなくマネージャー。部活動におけるマネージャーについて考えよう。

僕は男で大学までずっと運動部だ。中学の時はマネージャーはいなかったけど、高校・大学では自分の部活に女子マネージャーがいる状況で活動している。同期はみんないいやつで、高校の同期にはちょこちょこ、大学の同期とはほぼ毎日コンタクトを取り、いつも助けられている。彼女たちには感謝しかないのだけれでも、一つだけ疑問がある。どうしてマネージャーをしているの?という疑問だ。高校のマネージャーはマネジメントはしていなかった。どちらかというとボランティアだ。大学のマネージャーは実際に部のマネジメントをしてくれている。でも何が楽しくてやっているのだろうか。それは僕のずっと疑問に思う点だった。

つい先日、自分の部のマネージャーと深く話し込む機会があったので聞いてみた。余談になるが、僕はマネージャーと本当に親密な仲で選手とマネージャーという関係以上に気付かされること、支えにしていること、助けられることが多くて本当に感謝している。いつもありがとう(読んでいる訳もないが)。

彼女曰く、マネージャーは苦しむことなく夢を託しているらしい。選手の好成績を自分のことの様に喜べる。それも苦しむこと無く。だからマネージャーはずるい。自分は苦しまずに結果を出したことを喜べるのだから。歯がゆいときは無くはないけれど、自分は苦しんでいないのだからそれは仕方がない。自分が疑問に思ったときは実際に苦しんでいるわけではないのに、その疑問を投げかけることができる。私は頼られているようで実は頼っているんだよ。彼女はそう言った。僕は何も返せなかった。

 

確かにそうだ。マネージャーは苦しんでいない。頑張ったと言ってもそれは選手の比ではない。当たり前だ。選手が嘔吐していてもマネージャーは嘔吐しない。選手が怪我で骨を折ってもマネージャーは絶対に折らない。苦しむのはいつだって選手だ。でもマネージャーは選手の結果を選手同様に喜べる。そう考えるとかなりお得だ。確かにずるい。

でも僕たち選手はマネージャーを頼る。それはその人だから頼るのか、それともマネージャーという身分を有しているから頼るのか。そこは一般には区別しない。プレイしない人間が僕達のことを考え理解し、行動してくれるのは本当にありがたい以外の感情が存在しようがない。僕達はマネージャーを頼らざるを得ない。

彼女はそこをわきまえたうえで「マネージャーはずるい」と発言してくれたようだ。その場でこうも言ってくれた。「トマト君(僕のことです)は立場とか能力とかそういうことを度外視して私のことを必要としてくれるから、私は嬉しいよ。いつも頼ってる。ありがとう。」と。僕は彼女がマネージャーであろうとなかろうと、有能であろうと無能であろうと、僕のことを理解し受け止めてくれるという点でいつも感謝しているから、彼女に感謝されているらしい。幸いなことである。

 

マネージャー。選手は感謝せざるを得ない存在だ。頼らざるを得ない。いつも思っていた。彼女ら・彼らはは苦しむことなく結果を喜び、そして結果が出なくても素知らぬ顔をできる。ある意味無責任・ノーリスクで喜べる。ずるい。そういう意味ではマネージャーは選手を頼っている。一方で選手はマネージャー、つまり実際にプレイせずに競技に関与・サポートする人間を頼らざるを得ない。自分たちがプレイに集中できるから。マネージャーの仕事はできれば避けたい仕事だから。だから彼女らを頼る。それはその人間性を頼るのか、それともその身分を頼っているのか。そこは基本的には意識しないし、考えることもない。ただ感謝し、そして競技に集中する。それがマネージャーと選手の構図だ。

僕は大学の同期である、そしていつも僕を助けてくれるマネージャーを助けたい。救いたい。そんなに自分を批判せずに素直に喜んでほしい。自分のことを責めるのは辛いことだと僕は知っているから、無駄には責めないでほしい。どうしたらマネージャーは救われるだろうか。どうしたら彼女は救われるのか。本当に難しい。

マネージャー。高野連はグラウンドから追い出した。それは深く考えた結果ではないと思う。一般像を当てはめただけの実に浅い決定だったと思う。一般にマネージャーはか弱くて、健気で、そしてずるい存在だ。なかなか選手と同じラインに並べない。どうしたら同じ線上に並べるのだろうか。どうしたら自分を責めることなく喜べるのか。どうしたら妬むことなく喜びを共有できるだろうか。僕は皆を救えるとは思わないけど、身近で本当に僕を助けてくれて、そして深く考えてくれる自分の部のマネージャーくらいは救いたいと思う。もう少し考えます。

 

※正直言ってこんなことを考えずに「私は頑張っている」と考える他の部のマネージャーを見て少し癇に障って書いた記事です。多分に妬みを含んだ記事を酒の勢いで書き上げたものなので、誰かを傷つける内容を含むかもしれません。もし不快な感情を与えてしまったならば謝罪しますし、記事を削除します。遠慮なくどうぞ。

 

 

 

 

 

 

許し

僕は腹が立つと、必ずどうして自分は怒っているんだろう、と考えるようにしている。それは人に対するマイナスな感情をむき出しにしていい思いをしたことはないし、実は自分のことを反省するチャンスでもあると僕は捉えているから。考え直してみると単なる自分の嫉妬心、あるいは自分の認識が甘い、なんてことはいっぱいある。自分が人の前に立つときは特に気を付ける。中心人物が感情的になるとみんなのびのびできないと反面教師さんから学んだから。基本的にこの考え方は僕の中では大事な考え方だ。

 

さてこういう考え方をしていると、なかなか得をすることもある。人に対して怒るのではなくまず理解しようというアプローチになるし、言うべきことを伝えるのは叱ることになる。一度反芻しているから、相手が納得できるように話せる。また自分の幼い感情を他人にぶつけることも回避できる。僕は幼いときは本当に感情むき出しの動物だったから、これで少し人間に近づけた。

一方で損していることもあるんだろうな、と思う。どうして怒っているんだろうと考えることは全部自分の原因に返ってくる。

例えば「しんどい、つらい」とさんざん相談されたとき。僕は「お前の悩みなんて小さなものだろ」と思ってしまうことがある。でも悩みは量が問題ではなく、その人のキャパシティの何割を占めるのかが問題だと考えるから、それは飲み込める。相手のキャパシティは見えないし、比べるものでもない。また「お前の悩みは小さいだろう、それに比べて俺はこんなことで…」と話したい自分にも気づく。なるほど、そういう考えはよくない。逆のことをされれば誰だって腹が立つだろう。相手は相手なりに苦しんでいるのだから、聞いてやるべきだ。だからしっかり聞いてやる。理解しようと努める。それで救われるかどうかはわからないけど、何度も相談してくるあたり信頼はされてるんだなと思う。

このように考えるから僕は大体の事象の原因が自分に返ってくる。そして自分を責めてしまう。これは自分を成長させてくれたけど、自分を置き去りにしているような気もする。自分を許せていないように思う。僕を一番責めているのは多分僕自身だ。

責めなきゃいいだけだ。考えることをやめればいいだけだ。だけどできない。どうすれば考えることをやめられるかも実は知らないのかもしれない。僕はどうしても自分のことを許せない。

 

クロイヌ

非常に面白い動画を紹介する。


I had a black dog, his name was depression

 

鬱を黒い犬に例えた動画だ。

彼を倒すことはしない。逃げ出すこともしない。ただ受け止める。

彼に感謝することはできなくても、とっても素晴らしい先生だったとは思う。

 

こういう点が僕にはすごく心を動かされた。理解することは自分を救う。理解を広めることは人を救う。やろうとしないことは甘えかもしれないけど、本当にできないことは認めないと救われない。その線引きを理解すること。人は何でもできるわけじゃない。できないことにあぐらをかいてはいけないけど、理解は人を救うんだ、と強く感動した。

 

僕は自身を鬱病だとは全く思わない。自分の灰色の時間をつらいと思うけど、これが鬱だとしたら随分楽なものだ。しかし自分のつらさをoverexcitabiityによるものと仮定したり、existential depressionと考えてGiftedの本を読むこと。そうして理解していくこと。これらは本当に僕の心を救った。

気付かずに人を傷つけていたこと、それに後から気付いて自分を責めていたこと。自分の存在をいつだって考えてしまうこと。意味がないと思ってしまうと途端にやる気が抜けてしまうこと。自分の考え込んだ時の行動力のなさ。活動的な時期と思考に耽っているときのギャップ。自身のIntensityをコントロールできないこと。感情を無視できないこと。人より努力の量が少ないのにできてしまうことへの申し訳なさ。

いろんなことに理由ができた。そしてまだまだ勉強の途中だからもっと理由を見つけていける。理由が見つかれば次の行動ができる。袋小路から歩き出せる。理解は人を救うんだ。

これは自分だけじゃない。みんなを救えるとは思わないけど、僕は僕を頼ってくれる人くらいは助けてあげたい。他人を理解し、受け止めること。裏切らないという安定感を持って抱きしめてあげること。そんなに難しいことではない。

自分が学問に、そして愛に救われているから、恩返ししなくては。僕の灰色の時間は友達とは呼びたくないけれど、いつだって先生なんだ。灰色の僕は心理学を見つけてくれた。こうして心理学を勉強したこと。心理学に心から救われたこと。僕はこの学問に恩返ししたい。この救いを共有したいと強く思う。

 

 

 

空に

昨日は本当に素晴らしい天気だった。

空を見上げた。美しかった。

 

僕の心は原色で彩られる。青というよりシアン。赤というよりマゼンダ。とにかく極彩色。エネルギッシュで明るくて。そんな僕は勝ち負けなんかより自分の信念を貫いて、結果は後から伴うもの、と突っ走る。いつだって結果は勝手に付いてきた。いつだって僕は成し遂げてきた。人を引き付けて、感動を共有してきた。中学、高校、そして大学。いつも何かを作ってきた。

一方でどんより重い灰色で満ちる時もある。動きたくない。どうしていいかわからない。先が見えない。みんな心配して戸惑うけど、僕自身よくわかっていない。何がこうさせるのか。何が不満なのか。自分について延々考えている。どんどん深みへ潜っていく。すごくつらい。でもこの時間がいつだって大事だった。ここでの出会い、気付きが次の起爆剤になる。そう信じている。

だけど最近はこのスパンが短くて、灰色の時間が長くて、本当にしんどい。本当にやりたいことってなんだ。やりたいことをやっていい人間なのか。こんな好き勝手に動き回っていいのか。僕が貢献できることは何なのか。灰色に染まる時間はネガティブなつもりはないのだけれでも、自己批判を続けてしまうのでやはり苦しい。自分をいじめて、でもこれなら絶対に信じられるというものを掴まないと怖いから。突っ走るのが怖いから。みんなはカラフルな僕を主体として見てくれるけど、本来は重苦しい灰色なんだと最近よく思う。人の前に立つことが多かったからカラフルな服を着ることができているけど、裸になれば暗い灰色だ。ひとたび光を見つけると本当にエネルギッシュだけど、そんな時間は今までを振り返るとかなり少ない。灰色の自分はもがき苦しんでいるけれど、人にはなかなか話せない。そもそもなかなか言葉にできない。しかもこわい。いつも心の中で自分と自分が話し込んでいる。ずっと。

 

青空。それはたった一色なのにどうしてこんなにきれいなんだろう。どうしてこんなに透き通っているんだろう。僕もこうなりたい。こうありたい。激しさや苦しさを越えて、1つの色で感動をもたらしたい。

 

空に。空へ。

僕は吸い込まれたい。

 

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Giftedに関して1

少し読み進めたのでまとめる。論文を2本ほど流し読みして例の本を丁寧に読み進めている。

基本的な知識はこの本中心なので偏っているのかもしれない。レファレンスが少ない主張など聞くものではない、というのが持論なだけに巨大ブーメランだが、この本はなかなかに信頼できる書き方をしているので、巷にはびこるGiftedよりかは参考程度に留めておいていいと思う。本気でやるならこの本以外にもいくつも読まないといけないとはわかっていますが、僕は心理学者でも英語翻訳者でもないので出典が少ないことはお許しください…。また誤訳などは含む恐れがあるので、その点もご了承ください。英語できる人間になりてえ…

 

Misdiagnosis and Dual Diagnoses of Gifted Children and Adults: ADHD, Bipolar, OCD, Asperger's, Depression, and Other Disorders (English Edition)

Misdiagnosis and Dual Diagnoses of Gifted Children and Adults: ADHD, Bipolar, OCD, Asperger's, Depression, and Other Disorders (English Edition)

  • 作者: F. Richard Olenchak,Jean Goerss,Paul Beljan,James T. Webb,Nadia E. Webb,Edward R. Amend
  • 出版社/メーカー: Great Potential Press
  • 発売日: 2005/01/15
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本題に入る。まずGiftedという単語が少し嫌われがちな単語だと思われるので、認識を改めよう。Giftedとは「胸が大きい」と似ている(男なのに変な例え方をして申し訳ない)。彼女たちは彼女らなりの悩みがある。肩が凝る、性的な目で見られがちなど彼女らの悩みは尽きない。しかし一般にはそんな悩みは認識されがたいし、それ以上に得していることも多いだろうと思われがちだ。本当に幸せなのは平均に収まることだと思うのだが…。

少し例えが悪いかもしれないが、僕が言いたいのはGiftedは単純に平均値から離れた人間というだけで、それ以上でもそれ以下でもない、ということだ。貧乳より巨乳の方がマシかもしれない。得することも多いかもしれない。だけど彼女らには悩みがある。人とは違う目で見られることも多かろう。問題の大小はさておきGiftedもその程度の問題だ。「神から授けられた」というニュアンスが語弊を招きがちなのでその点をまずは修正したい。

さてGiftedは困っている。そもそも相談すらしにくい。「私Giftedかもしれない」なんて相談したらどうなるだろうか。そもそも概念を知らないし、次に自慢かよと一蹴され、困っている事実以上に先天性の違いに嫉妬され、人と違うことを否定的な目で見られる。自分で調べようにもまず情報が少ない。日本語での情報があまりに少ないのでわざわざ洋書を読むしかないのだ。実際ギフテッドと調べると、「天才の育て方」などが出てきてバカバカしいと言うほかない。負の側面について困っているんだから、陥りやすい症状・考え方、またそれの対処の仕方などをどうか引っ張ってきてくれ。

 

批判はこれくらいにしよう。胸のサイズ問題は僕は男なので聞く以上には理解できないが、Giftedも大変困っている。彼らの共通点は次のように記されている。

An almost universal characteristic of gifted children and adults is that of intensity.

一言で言うと「強烈、激烈」といったものだ。極端と言ってもいいかもしれない。何が強烈なのか。それはドンブロフスキの理論に頼ろう。

ドンブロフスキはGiftedの激しさを"overexcitability"(以下OE)と名付けた。人は刺激に反応し興奮し、そのことにより成長などの何かを得る。その刺激への反応が"over"に"excite"してしまう。その傾向は高い知性を持つ子供・大人に良く見られ、このことを"overexcitability"という。

過剰な反応は正負、両方の感情に作用する。こうした特徴により、彼らはいくつかの症状を起こしがちだ(詳しくは次回)。アスペルガー症候群ADHD強迫性障害、そしてExistential Depression(僕はこれに該当するんじゃないかな。自分はGiftedだとは到底思わないけど、EDは割と当てはまると思う。断じてErectile Disfunctionではない)。それだけでなく、その他もろもろの問題点がある。

 没頭してそのほかを放置してしまう、感情が制御できない、質問をやめられなかったり知識をひけらかす、仕事を淡々と続けること以上に不安や意味のなさに恐怖を感じて辞めてしまう…

こんなの一社会人として認められない、と感じることばかりだ。でもGiftedと呼ばれる所以は過剰な反応に対する正の面だ。刺激に対して意味を見出す思考能力や帰納的・演繹的な試行錯誤、想像力であったり、芸術的な能力に秀でていれば具体から抽象を描き出す力も突出している。こうした刺激への正の反応をアウトプットできれば、確かに人よりも優れている場面は多くなる。

一方で反応を形に出来ない場合はどうだろうか。刺激から逃げてしまえばどうだろうか。Giftedは一転「変な子・人」になってしまうのではないだろうか。例え自身の反応をうまく出力できたとしても、過剰な負の反応は消えることはない。GiftedのIntensityは消えることはあまりない。自身の激しさとはうまく付き合っていくしかない。こうした情動の激しさは思考や学習の方法と深く関係している。次回書くとしたらその点を書こう。

 

さて随分長くなってしまった。まとめると「Giftedは悩んでいる」という主張をしたいだけなような気もする。OEは自分がわかってあげないときっとつらい。本来あるべきはそうしたことを教育段階で気づき、親がまず理解してあげること。次に自身が経験とともに次第に理解していくことだと思うが、そもそもGiftedが浸透している概念ではないから難しい。OEと付き合うには自身をある程度許してあげること。負の反応を認めてあげること。それがきっと大事なことだ。

 

できることとできないこと

僕にはできないことが多い。というか問題の大きさとそれに立ち向かう活性化エネルギーの大きさがあまり比例しない。だから大きな問題にはあまり苦しまないけど、些細なことを取り組み始めるのに人より時間やエネルギーがかかる。はっきり言ってすごく面倒な奴だ。それはいつも嫌な気持ちにさせる。悲しいかな、多くの人はそれを怠けていると呼ぶ。

一方で僕だからできることもある。多くは経験から学んでやっていることであまり自分が特殊なことをしている自覚はないけれど、どうやらあまりいないようだ。いたって普通な気がしていたけど僕はすこし変な奴だ。

さて友人(僕の話で「友人」として出てくる人間は大体5人くらいだけ、という悲しい話はさておき…)からの話だ。インターンシップで自分のできないことを再認識してつらいらしい。自分の弱みを言われて喜ぶ人間はまあいないと思うが、それってさほど問題なのだろうか。僕の弱みに関して「甘えてんじゃねえクズ野郎」と言われるとさすがにへこむ。事実ではあるのだけれど、僕の葛藤を無視される気がして少し悲しくなる。それは人格を否定されるから。能力を否定するだけならそれは事実だから、修正するかそこは放置するかの2択しかないから考えるだけだ。悩む必要はない。

僕の持論は、できないことを認知していれば、それはできる人に任せちゃえばいいじゃんという意見だ。それがチームだし集団の良さだ。僕は○○ができません。でも僕にはこんな能力があります。とはっきり言える集団はすごくのびのびと仕事・作業に取り組めると思う。マルチに能力が長けている人は集団をまとめればいい。誰かが一気通貫して軸を持つ必要があるから、とがった人より能力が平均的に高い人間はリーダーに適している。僕はやっぱりそういう意味ではリーダーに向いていない。経験を積めたことは本当に良かったと思うけれど、冷静にそう思う。

僕の友人は情報を論理的に扱うことはあまり得意でないけど、人から話を聞きだしたり何かを思いつくことはすごく天才的だ。いとも簡単にそういうことをやってのけるからたまに悔しくなるけど、それが能力というもの。彼女ができないことを克服しようとしているのを否定するつもりはないけれど、できることを誇りに思ってそれをしっかり発揮できる場所で評価されればいいのになといつも思っている。

 

さてできることをしっかりアピールするのは海外では当然のことらしい。海外インターンに行く友人からそう聞いた。どうして日本はそうじゃないんだろうか。1つやや過激なことを言おうと思う。論理が破綻していたり、情報のソースが確かでない部分はあるが、思い付きだし何よりこんなブログ見に来る人はそういないので書いてみることにする。

できることを評価するということ。人と違うことをアピールすることは残酷なのだ。要は誰でもできることはわざわざ採用する必要のある人間にはやらせない。バイトや派遣、何なら機械にやらせれば良い。このように考えることは非常に残酷で、今の社会の構造をつぶしてしまう。先天的な能力の差は努力で補おう、出来ない人が耐えて耐えて出世するなんて話が大好きな日本にはけっこう残酷な概念じゃないかなと思うのだ。多様性を否定しがち。終身雇用で年功序列。これらの要因の一つにできないことに目を付けがちな教育・社会があると僕は思う。これが悪いことだとは言えない。メリットだってあるはず。でもどうにも楽しくなさそうに見える。できないことは目を背けてはいけないけど、でもやりたくないしもっと適任の人がいる。みんなのできるでチームの作業を進めるのが理想じゃないのかな。

 

できる・できないに加えてこの話もしたい。人工知能だ。

You TubeのCMでこのような動画を見た。30秒でうまく表現したなと感心した。広告業って本当にすごい。

www.youtube.com

 

日本に人工知能の労働力を入れるとおそらく大変なことになる。誰でもできることはどんどん機械にやらせて、人間は画一的でない新しいことを始めないといけない。既存のものはAIが処理できるようになる。それに対して面白いと思えることをチャレンジしていく。今よりずっと感情に働きかけていくことが着目される。そういう構図が生まれるはずだ。それはきっと多様性につながる。でも今ある概念とはやや異なっているから戸惑うし、反発が起こるのかなと思う。そもそも文化が違うのだから無理に始めなくていい。だけどこれこそ理念を達成するために危険を顧みずに飛び込む"venture"企業から動いて、結果を出して欲しいなと思う。

能力を評価してほしい。自分の好きなことで戦っている人は本当に生き生きしているし、僕もそうなりたい。できないことを消すのは本当に必要かな?