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くず人間の更生記録(にしていきたい)。人間初心者の個人的見解

部活動

僕は中学、高校、大学とすべて運動部に所属してきた。大学ではサークルではなく体育会と呼ばれる部活で活動している。さて、部活動の意味とは何だろうか。それを今回は考えたいと思う。

僕は部活動は単に経験・思考をできる場としか考えていない。以前の記事でも書いたが、本気でやるからつらくなる。つらくなるから悩む。言われたことをすんなりと実行できる範囲には思考は存在しない。思考に至るには本気で取り組む必要があると僕は考えている。だから僕にはサークルに入ることはあんまり考えられなかった。楽しいと思うし、つらいことは存在しない。つらいことはなくて平穏な日々があるのだとは思うけど、そこには麻薬のような甘美な幸せはないと思う(もちろん僕は麻薬をやったことはないのだけれど!!)。目標を信じて苦しみを乗り越えること。そして様々な人の助けを借りて、自分の目標を達成することの気持ちよさ。期待に応える幸せ。期待に応えれば人々は笑顔になる。そして自分も目標を達成して幸せな気持ちになる。この両方が達成されたときほどの幸せは存在しないと思う。これほど中毒性のある幸せはなかなか存在しない。僕はこの感覚を4度ほど味わってしまっているので、高い目標を掲げることをどうしてもやめられない。

しかし、戦うということはとんでもない苦痛を伴う。部活に関わらず、本気で取り組む苦しさを味わっているならわかるはずだ。本気で音楽をやったり、芸術をやること。それは悩みをもたらすし、苦しい思いを何度もする。ただ部活は簡単に入れるし、勉強以外で最も近くに転がっている本気の活動だから、簡単に苦しむことができる。大いに苦しむ代わりに本当に甘い甘い幸せをつかむ可能性が存在するというだけ。

さて問題は苦しむことだ。苦しむことの代わりに甘い幸せが待っているかもしれない、というだけで人生の多くをつらいと考えていていいのだろうか。不毛ではないのだろうか。僕はまだまだ大学生だから社会人のつらさはわからない。だけどその作業そのものをある程度楽しめないと、結果や報酬だけを引き換えに努力することは厳しいことだと思う。というのも僕の所属している部活動の練習は本当に肉体的・精神的苦痛を伴うからだ。結果を僕は出した。それはきちんとリザルトとして残っているものだから、自画自賛ではない。だけどそれはその結果を出すことが本当に夢だったから苦痛を耐えられただけで、それを果たしてしまった後は苦痛にどうしても目がいってしまい、モチベーションが起きない状態に落ちてしまった。これはその作業・努力の過程自体を楽しめなかった結果だと考えている。苦しみは人を育む材料になるけれど、人を蝕むモトにもなる。

さて、努力をつらいと悩む人は考えてほしい。僕も今ちょうど努力をつらい、きついことから逃げ出したいと考えている人間だから、一緒に考えよう。その作業は自分に成長をもたらすだろうか。その作業は自分の人生を灰色にする、虚しくするものではなく豊かにするものだろうか。その作業自体を楽しいと思えるだろうか。このあたりが僕はチェックポイントだと考えているけれど、他にも参考にする点はあるかもしれない。幸い僕には転職した先輩がいるし、部活を途中でやめた先輩もいる、そういった人を中心にどうして辞めたのかということは聞いてみようと思う。

ただ本当に間違っていると感じるのは、無理して継続することが美徳とする文化だ。確かに、本気にならないとわからない幸せは存在すると思う。だけど、そのことによって人生が灰色に見えてつまらないと感じることは、その人にとってつらい人生になるだけだし、なにより耐えるだけになり思考をもたらさない。それは成長につながらないから無駄な苦しみとなると思う。思考が存在する程度に工夫しがいがあり、そしてその過程を楽しめること。それこそが生きる活動であり、そして学生の部活動の本質ではないだろうか。楽しまなければ思考は存在しない。思考が存在するかどうかが、その活動を継続するかどうかの最も大きなファクターだと僕は考えている。

役職に縛られて視界が狭くなっている人。あるいは先輩からのプレッシャーにつぶされかけてつらい思いをしている人。そもそも仕事や練習が辛くて辞めたいと考えている人は一度見直してほしい。そこに思考が存在するのか。工夫できる幅が存在するのかどうか。思考を放棄して惰性で続けることほど無意味な時間はない。一緒に苦しいことをもう一度見直してみませんか。