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くず人間の更生記録(にしていきたい)。人間初心者の個人的見解

できることとできないこと

僕にはできないことが多い。というか問題の大きさとそれに立ち向かう活性化エネルギーの大きさがあまり比例しない。だから大きな問題にはあまり苦しまないけど、些細なことを取り組み始めるのに人より時間やエネルギーがかかる。はっきり言ってすごく面倒な奴だ。それはいつも嫌な気持ちにさせる。悲しいかな、多くの人はそれを怠けていると呼ぶ。

一方で僕だからできることもある。多くは経験から学んでやっていることであまり自分が特殊なことをしている自覚はないけれど、どうやらあまりいないようだ。いたって普通な気がしていたけど僕はすこし変な奴だ。

さて友人(僕の話で「友人」として出てくる人間は大体5人くらいだけ、という悲しい話はさておき…)からの話だ。インターンシップで自分のできないことを再認識してつらいらしい。自分の弱みを言われて喜ぶ人間はまあいないと思うが、それってさほど問題なのだろうか。僕の弱みに関して「甘えてんじゃねえクズ野郎」と言われるとさすがにへこむ。事実ではあるのだけれど、僕の葛藤を無視される気がして少し悲しくなる。それは人格を否定されるから。能力を否定するだけならそれは事実だから、修正するかそこは放置するかの2択しかないから考えるだけだ。悩む必要はない。

僕の持論は、できないことを認知していれば、それはできる人に任せちゃえばいいじゃんという意見だ。それがチームだし集団の良さだ。僕は○○ができません。でも僕にはこんな能力があります。とはっきり言える集団はすごくのびのびと仕事・作業に取り組めると思う。マルチに能力が長けている人は集団をまとめればいい。誰かが一気通貫して軸を持つ必要があるから、とがった人より能力が平均的に高い人間はリーダーに適している。僕はやっぱりそういう意味ではリーダーに向いていない。経験を積めたことは本当に良かったと思うけれど、冷静にそう思う。

僕の友人は情報を論理的に扱うことはあまり得意でないけど、人から話を聞きだしたり何かを思いつくことはすごく天才的だ。いとも簡単にそういうことをやってのけるからたまに悔しくなるけど、それが能力というもの。彼女ができないことを克服しようとしているのを否定するつもりはないけれど、できることを誇りに思ってそれをしっかり発揮できる場所で評価されればいいのになといつも思っている。

 

さてできることをしっかりアピールするのは海外では当然のことらしい。海外インターンに行く友人からそう聞いた。どうして日本はそうじゃないんだろうか。1つやや過激なことを言おうと思う。論理が破綻していたり、情報のソースが確かでない部分はあるが、思い付きだし何よりこんなブログ見に来る人はそういないので書いてみることにする。

できることを評価するということ。人と違うことをアピールすることは残酷なのだ。要は誰でもできることはわざわざ採用する必要のある人間にはやらせない。バイトや派遣、何なら機械にやらせれば良い。このように考えることは非常に残酷で、今の社会の構造をつぶしてしまう。先天的な能力の差は努力で補おう、出来ない人が耐えて耐えて出世するなんて話が大好きな日本にはけっこう残酷な概念じゃないかなと思うのだ。多様性を否定しがち。終身雇用で年功序列。これらの要因の一つにできないことに目を付けがちな教育・社会があると僕は思う。これが悪いことだとは言えない。メリットだってあるはず。でもどうにも楽しくなさそうに見える。できないことは目を背けてはいけないけど、でもやりたくないしもっと適任の人がいる。みんなのできるでチームの作業を進めるのが理想じゃないのかな。

 

できる・できないに加えてこの話もしたい。人工知能だ。

You TubeのCMでこのような動画を見た。30秒でうまく表現したなと感心した。広告業って本当にすごい。

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日本に人工知能の労働力を入れるとおそらく大変なことになる。誰でもできることはどんどん機械にやらせて、人間は画一的でない新しいことを始めないといけない。既存のものはAIが処理できるようになる。それに対して面白いと思えることをチャレンジしていく。今よりずっと感情に働きかけていくことが着目される。そういう構図が生まれるはずだ。それはきっと多様性につながる。でも今ある概念とはやや異なっているから戸惑うし、反発が起こるのかなと思う。そもそも文化が違うのだから無理に始めなくていい。だけどこれこそ理念を達成するために危険を顧みずに飛び込む"venture"企業から動いて、結果を出して欲しいなと思う。

能力を評価してほしい。自分の好きなことで戦っている人は本当に生き生きしているし、僕もそうなりたい。できないことを消すのは本当に必要かな?