Design My Life

くず人間の更生記録(にしていきたい)。人間初心者の個人的見解

道徳の対立

前回の記事は正直言って腹立ちまぎれにただ書いただけだ。あれが僕の直観の叫びと言ってよい。しかしそれで終わるのはただの小学生だから(実際に僕のメンタルは子供同然なのだけど)、少し考えよう。前提として友人に彼氏ができてそっけなくなったという仮定が正しいとする。

 

どうして僕は苛立つのか。そういったことを次の本を通して考える。これは今僕が戦っている本だ。全然サクサク読めなくて、例示の意味がよくわからなかったりして戸惑うことも多いけれど、新しい視点を与えてくれる面白い本だ。

社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学
 

 

さて僕が怒りを感じる理由は「自分が利用されているように感じるため」だ。筆者は情動を掻き立てる道徳基盤の1つとして〈公正/欺瞞〉を挙げており、人間は「双方向の協力関係を得る」という課題のために、信用に値する公正な態度を好み、一方で自分を利用しようとする・騙そうとする態度に嫌悪や怒りを感じるよう先天的に・進化論的に身に付けてきた、と主張する。この論で行くと、僕が怒りを感じる理由としては理に適う。自分自身方向の協力としては、僕は理解されることに大きな喜びを感じる。お返しとして何かが欲しいというよりも僕自身の理解・共感・肯定を求めているように思う。そういうことを無意識に期待して様々な行動を取ってきたのだと思うし、僕への協力・見返りは僕を理解することを期待していた。ところが扱いに敬意を感じなかったため、欺瞞を感じ取り、怒りを覚えた。

一方で彼女も彼女なりの道徳に従って行動している。〈公正/欺瞞〉の道徳モジュール(直観的情動を起こす道徳的なスイッチのようなもの)のきっかけとして、「配偶者への貞節」を挙げている(オリジナル・トリガー、カレント・トリガーの違いはあるが、詳しいことは実際に購入して読んでいただきたい。そこまで説明するのは申し訳ないし面倒。)。良く考えてみれば今はクリスマス直前だ。この時期協力関係として有力なのはどう考えても友人より彼氏なのは日本の一般論から考えて正しい。そのような天秤にかけずとも、付き合いたてのカップルであればそうなるのは想像できる。つまり、「一介の友人である僕を丁寧に扱う」ことより「彼への忠誠や公正な態度として、興味のない男へわざわざ丁寧に扱うことを放棄する」ということが優先された。比べたかどうかすら怪しいが、結果的にはそうなった。

それぞれが自身の論理、倫理に従った行動、感情を抱いている。僕は相手の利己的な態度に対する怒り、彼女は僕を利用したなどとおそらく考えておらず、ただ配偶者(ではないけれど)への貞節や信頼を前提とした僕への興味の喪失、そしてそれが現れた行動を取った。どちらも理解しうる。

おそらく僕が怒りを表明しても彼女は戸惑うだろうし、性格上僕の怒りに対して敬意や友情を以って接することより、僕への対立を意識するのであろう。どれだけ僕が彼女への誠実さを前面に出しても怒る。それは経験済み。だから無駄なのだ。僕は自分の不愉快さを復讐したいわけではない。ただ理解してほしかっただけ。それができなかったから、期待した見返りが返ってこなかったから悲しんでいるだけなのだ。

 

この本では結論という最後の章にこう締めくくっている。

したがって、異なる道徳マトリックスを持つ人と出会ったなら、次のことを心がけるようにしよう。即断してはならない。いくつかの共通点を見つけるか、あるいはそれ以外の方法でわずかでも信頼関係を築けるまでは、道徳の話を持ち出さないようにしよう。また、持ち出すときには、相手に対する称賛の気持ちや誠実な関心の表明を忘れないようにしよう。

ロドニー・キングが言ったように、誰もが、ここでしばらく生きていかなければならないのだから、やってみようではないか。"

ここで生きていくしかない。だからわざわざ彼女自身に言う意味はない。ただ親友と思っていた相手への敬意、信頼関係が薄れた。そんな気がする。一方的だったのかもしれない。信じていたのは自分だけだったのかもしれない。そんなことを考えてしまうあたり、もう親友とは呼べない存在になったのかもしれない。残念だ。

 

そしてやはり思う。理解されることの難しさと、理解しようと務めることは尊敬や愛を必要とするが、その動きや学問は人を救うのだと。

怒らない、見返りを求めない

友人の女性とずっと連絡を取り続けていたものの、最近急に冷たくなった。そっけなくなった。特に思い当たる節はない。俺も嫌われたものだなあと考えて虚しくなっていたけど、よく考えれば彼女に彼氏ができたか、忙しくて面倒かのどちらかだと気づいた。まあ僕はその程度だったようだ。

その女の子とは高校からの付き合いで、お互い好きだとかそういうのはない。そもそも遠く離れているから好きになりようがない。向こうは一切知らないけど僕は全く興味なくて、ただただ友人として大好きなだけだ。僕にはない観点を持っていてけっこうおもしろい。またお互いの悪いところをずけずけと言い合える仲なのもすごく楽ちんだ。そういう意味でいい友人として見ていたのに、こう切り捨てられると少し悲しく感じる。

その子にはいろんな相談を受けた。就活のこと、自分の考えのこと。もしかしたら自己満足かもしれないけれど、僕の考えを採用して就活もうまくいった面もあるし、力にはなっていると確信している。そういう人を切り捨てるのってどうよ、僕ならしないな、と考えているけれど、見返りを求めるのって浅ましいよねと思って考えを停止した。

 

誰かに何かをすること。別にそれは自分の意志だ。感謝されたくてやる訳じゃない。そして手伝うことや話を聞くことは自分の成長の糧にもなる。意見や存在を知覚することはある意味で勉強だ。手伝いに対して見返りを求めるのはバカバカしくて浅ましい。ましてやそれは口に出してはいけない。僕の好意でやったことだ。彼女にはいろんな視点を学ばせてもらった。そこは本当に感謝してるしそのお礼だと思うしかない。

理性ではそう判断できる。でも直観は違うだろと叫んでいる。彼氏ができたことに興味はないけれど、それならそうで連絡を控えたいと言ってくるのが筋だろう。「ふーんよかったね」という返事がどれほど不愉快にするのかわからないはずがない。どうしてこう不愉快な気持ちを感じないといけないのだ。僕を使いたいときだけ使って、あとは放り投げるような扱いをよくできるなと嘲笑したい気持ちが生まれてしまった。自重自重。

 

まあこういうのも経験。すこし怒りを感じたのも、結局は自分の好意の押し付けみたいなもの。見返りを求めるのもそれは自分の行為への過信・驕り。進んでやったことに見返りは発生しない。相手から感謝されたくてやっているわけではないのだから。でも僕はああはなりたくないから、人への敬意や感謝をもって接する。それだけのこと。

 

 

 

貝印のピーラーやばい!

今週の備蓄野菜でも作ろうかと思って、たった今マリネを作っていたのです。そして新しく買ったピーラーを何気なく使ったらびっくり!!切れ味良すぎてうはうはでした。ニンジンさんが気づいたらムンクの叫びばりのやつれ顔になるまで夢中で薄切りにしてました。

そのピーラーがこちら。

 

貝印 キッチンファイル ステンレスピーラー DG-3003

貝印 キッチンファイル ステンレスピーラー DG-3003

 

 

たった700円でこれだけ快適になるとは…。生活の質を上げるものには課金した方がいいとの言葉はその通りですね。ついでにいろんなものをポチっとしてしまいそうでこわい。

 

 

 

小さな気づき

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唐突にすみません。トイレットペーパーです。これすごくないですか?

 

こういうのを初めて見たからかもしれない。これって実は広まってるものなんですかね。僕は先日初めて見た。ちょっと感動した。

本当に小さな改良だ。トイレットペーパーを切る蓋が下についているだけ。でも確かにそっちの方が便利だ。片手でペーパーを切り取れる。でもそれって現状モデルに疑問を持たないといけない。よく「イノベーションには常識を疑う力が必要だ」なんて言われるけれど、そういうことって思おうとしていてもなかなかできるものではない。どうしたら気付けるようになるか。僕みたいな凡人は小さなイノベーションをしっかり視認して、「こういうものなんだね」ときっちり心に刻んでいかないといけない。例題を解くようなものだ。世の中に「イノベーションの例題」はごろごろ転がっている。こういう小さなことを思いつける人にまずはなりたいな。

 

 

 

 

 

 

kindle買いました。

先日のAmazonサイバーマンデーで無印kindleを買いました。

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最近古本を漁ることがおおく、また洋書を読むこともある。本はいくつも持ち運ぶのは重いから嫌だ。電子書籍ってどうなのかなーと思っていたところ、朝起きてこいつがセールだと知ってすぐさま購入を決意。kindlePWか無印かを悩むのみでした。

漫画は読むつもりはないし、暗いところで読むことがなければ無印で問題ないかと思い無印広告付きをポチり。その日のうちに我が家にやってきました。

 

いくつか本を漁り、小学校の時に読みふけった父の「竜馬がゆく」も8冊合本版を購入し、暇さえあれば読みまくっています。これはいい買い物だった。いくつか感想を記します。

まずPWと無印の違いについて。バックライトの有無、解像度が主な違い。重さはPWを持っていないからわからないけど、無印はすごく軽い。本1冊よりおそらく軽いから疲れはしないし、ページをめくる動作もなくてかなり楽。解像度は別に何も問題がない。漫画を読むとなると違いが出てくるのかもしれないけれど、活字は普通。そして本当にインクみたいな文字だから、本当に疲れない。レビューによくみられる「最初は紙が貼られているのかと思った」というのは全然大げさじゃない!これには本当に驚かされる。最後にバックライトの有無だが、これは社会人ならPWかなと思う。朝ベッドでごろごろしながら読むにはやっぱりライトが欲しいと感じるし、すこし薄暗いところだと読書灯がないと読みにくい。電子書籍タブレットのように思っていたけれど、kindleは光らない。端末にインクを表示させる、といった感じだ。だから暗いと本当に何も見えない。やっぱりPWは必須ではないけど、この差額をサッと出せる人なら間違いなくPWだ。僕は貧乏学生なので無印でいいし、満足している。

カバー等のアクセサリだが、僕は一切購入していない。カバーや保護フィルムに本体価格の1/2も使いたくないし、そもそもものにあまり愛着がわかないから可愛がりたくはない。あくまでkindleはサービスであってアイテムではないように感じる。

さてこういう端末を持つことで一番いいのは本が身近になることだと思う。電車でスマホをいじって2chまとめを見なくなった。腐ったサイトを見るよりも本を読みたくなった。お昼寝もいいけど、惰眠よりかは読書だよね、と思う。このアイテムは気軽に本を読みたくなるアイテムだ。また洋書も辞書がサクサク使えるのでハードルが下がる。本が生活の近くにいるようになった。

一方でやっぱり紙の本がいらないかと言えばそうではない。やっぱり学校で使うような本はガシガシ蛍光ペンを引きたいし、付箋で参考の論文とかを記しておきたい。前の章にペンを挟んですぐ戻る、みたいなこともできないし、一冊の本と一冊分のデータとして比較するならやっぱり紙の本の大勝利ではある。勉強をこれでする気にはならない。

 

とはいえさらっと読みたい本は絶対kindleだ。「へえ、なるほど」と思う程度の本はやっぱり読んでいきたいし、そういう雑多な知識が自分を作っていくと思う。多様性こそユニークさを育むと考える人間だから、自分に多様さを与えるにはいいツールだ。生活の質を上げるアイテムという点ですごく良かった。こういうものはできるだけ課金していきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

知ること、話すこと


Why we choose suicide | Mark Henick | TEDxToronto

 

少し泣いた。

 

僕だからできることもあるのかもしれない。病院にも行きたくない。そもそも何かアクションを起こしたくない。もう何もしたくない。死にたくはないけど、生きていたくない。そういう気持ちの人なら絶対わかるはずだ。

自殺について理解すること。鬱について知ること。日本ではどれだけその動きがあるだろう。もちろん存在は知っているし、何か動きはあるけれどもっと大きくできないだろうか。僕はもう死んだようなものだ。小さく死んだんだ。もう少し元気になったら、もう少しエネルギーができたらこういうことを広めたいと考えて動き出すのかもしれない。

 

自殺はタブーじゃない。鬱だってみんなにもっと身近に感じてもらいたい。よく知ること。深く理解すること。それによって友人に話すハードルが下がればいいなと思う。僕はまだ話せていない。怖いから。でもそれが怖いことじゃないとみんなが思うようになれば、きっと話せる。僕だけじゃなくて、小さな鬱を抱えている人はもっと救われる。みんなが愛情をもって人に接することができれば、もっと相談しやすくなり、抱え込むものは減るんだろうなと思う。「認識が狭くなる」という表現。実によく表した表現だ。こういう言葉をみんなに知らしめることに、この話者は生きがいを感じているのだろう。僕も広めたい。生きづらさを感じているものとして、死ぬ前にこれくらいはやってみたい。

満たされない

満たされない。

何をしても満たされない。どうしたら幸せになれるんだろう。僕のしたいことは何だろう。そういや何が幸せだったかな。何が楽しかったのかな。僕はどんな人間なんだろう。何を残せるんだろう。そんなことばかり考えている。

この世に何か爪痕を残したい。自分が不条理を感じるものを一つでいいから変えたい。他人が共感できる何かを作り上げたい。僕にはその能力があると信じたい。だけどそれは青臭い若者の過信だ。間違いなく過去に取りつかれているだけで、僕は今何も手にしていない。自分のことを考えてみれば英語の力もない。飛びぬけて賢いわけでもない。何かをやり抜く力がずば抜けていることもない。今の時代、一人の人間は世の中を変えることができるけど、多くの人はそんなことできない。組織に属して、一つの歯車になるだけだ。起業すれば社長にはなれるけど、そんなこと何の意味もない。僕はただのちっぽけな僕だ。

考えても何も生まれない。何かを生み出したければ手を動かさないといけない。でも僕は考えるのをやめられない。自分を責めたり、自分を見つめたり。やらないといけないことはいくつかあるのだけれど、楽しくない。それがしたいことだとは思えない。そういや以前「あなたはなんでも楽しめていいね」と皮肉られたことがある。違う、そうじゃない。楽しめないと何もやらないんだ。いろんな事象から抽象を引き抜くこと。きれいに繋がること、橋が架かること。人から感謝されること。人に愛されること。難しいことをやり遂げること。全部楽しかった。でも、それにはかなりのエネルギーが必要で、今それがない。あの皮肉はすごく痛かった。大好きな人から言われたあの一言は僕が人と違うのかもしれない、と気付かされるのに十分な一言だった。

あれから僕は大きな欠陥を抱えた人間なんだと思うようになった。普通に淡々と作業を進めることは僕には難しいことなのかもしれない、と思うようになってしまった。だからこんなに生きづらいのかと思った。だけど今までの人生だと、それ以上の何かを持っているからここまで自分なりの結果を残せたのだろうと思うし、人に愛されてきたのだろう、と思う。特別な何かを持っていると信じたいだけなのだけど。僕は欠陥を抱えながらも何かを残して死にたい。ただ生きているだけの人生なら今すぐ死んでやるのだけど、僕は何かできると自分に期待してるから死なない。まだ死ねない。

 

 

この土日はそんなことばかり考えていた。あまり有意義ではなかったように思う。できないことを考えていても仕方がない。弱点は弱点でしかない。それが長所に変わることなんてない。でもこれを認知することで先に進めることもあるはずだ。僕は理想主義者だ。妄想に生きている。そして今まで妄想を現実にしてきた。あと一歩。満たされる日々を求めて、あと一歩。